防災・減災への指針 一人一話

2013年11月28日
鉄道会社らしい復興策
仙台臨海鉄道株式会社専務
大橋 文夫さん

経験を踏まえた避難訓練の見直し

(聞き手)
大橋様は、東日本大震災以前に、災害を経験された事はありましたか。

(大橋様)
宮城県沖地震を経験しました。当時、私は日本国有鉄道に勤務していて、凄い地鳴りとともに地震が起きて、しばらく電車が止まってしまいました。
再び、宮城県沖地震が確実に来るだろうと考えていました。
仙台臨海鉄道の近くには逃げられる高い場所がないので、どこかに一つ避難場所を作ろうという事で、屋上に上がる事になっています。そこで、震災の1年前に避難梯子を作っておいたのですが、10メートル近い津波では、どこに避難すればいいのか難しい問題です。

(聞き手)
 震災前の備蓄や訓練の状況はどのようなものだったのでしょうか。

(大橋様)
 毎年、避難訓練と防災訓練を含めて、春と秋に2回実施しています。その都度、全員参加で色々な状況を想定してきました。備蓄としては水と乾パンを、出勤者の3日分ほど用意していましたが、今回の事を経験すると、もっと用意しておかないといけないとつくづく思いました。

(聞き手)
 それも教訓の一つになっているという事でしょうか。

(大橋様)
そうです。ですから現在は、出勤者50人の5日分くらいの量を備蓄しています。避難訓練もさらに充実させて、津波の想定をしながら、どこに逃げるのかという部分まで踏まえて訓練をしています。

高台がない場所での避難想定

(聞き手)
 避難する場所は、ここから近くの高い建物になるのでしょうか。

(大橋様)
 そうですね。
震災後は色々な方から、いざという時にはどこに逃げるか決めておくべきだという話が出ました。
道路の向かいに仙台運輸倉庫株式会社さんの倉庫がありますが、そこは、海側、つまり、津波が来る方向へ向かう事になるので、可能なら津波から遠ざかる場所で考えています。
震災時も、そういった避難場所が、この辺りに確保されていれば良かったのでしょう。
大変だと思いますが、そこについては多賀城市が何か対策を考えていると思います。
この場所から行ける高台は、文化センターか市役所の方面しかありません。
色々な所に避難場所を指定してもらっていますが、そのいずれにも遠いので、もう少しここから近い場所に避難場所を作ってもらえればありがたいです。

(聞き手)
 地震が発生した時には、どちらにいらっしゃいましたか。

(大橋様)
 発災時はこの事務所にいました。
一度逃げましたが、最初は津波が4メートル程度だという話だったので大丈夫だろうと思っていました。
トラックの運転手が帰って来て、今度はラジオから10メートルになるという予想だと聞いて、これは避難しなければいけないと思いました。他の社員もいたので、「車は駄目だ、走って逃げろ」と言ってほぼ全員で逃げました。

(聞き手)
その時には何人くらいの方が事務所にいましたか。

(大橋様)
 25人が出勤していました。
ところが、駅長と常務だけは、見届けると言って残ったのです。
「避難しなければ駄目だ」と説得したのですが、それでも残ると言ったので、しかたなく、23人で逃げました。
携帯電話が繋がらなくなってしまったので、どうなったのかとても心配しました。
私たちは目の前で津波を見て、イオン多賀城さんの前にある線路や鉄塔が呑みこまれる場面も見ました。
他の社員が「ああ、もう終わりだ」と言ってしまうほどの、見るも無残な光景を目の当たりにしました。車も、乗っている人ごと流されて巻き込まれていました。
 翌日の朝になっても、水は引きませんでした。昼になって、残った2人の様子を見に行こうと、普段なら15分で済む道のりを2時間近くかけて向かいました。
そうしたところ、なんと2人は無事でした。高い所に避難して事なきを得たそうです。
会社周辺は壊滅状態で、もう立ち直れないのではないかと思ってしまうほどの惨状でした。
カップラーメンが流れ着いていたので、とりあえず、その晩はそれを拾って食べて過ごし、12日は事務所に泊まりました。
 さらにその翌日、震災から3日目には、とりあえず一度家に帰ろうという事になり、それぞれに歩いて自宅に一度帰りました。
その後、対策本部を作る事になりました。JR貨物さんも入っているJR東日本のビルの一区画を借りて、電話とパソコンを設置して、安否確認を始めました。
次の日ようやく、社員も家族も全員無事だったとわかり、これだけでも非常に良かったと思いました。

(聞き手)
 経験した事のない揺れだったと思いますが、その時点で津波が来ると予想されていましたか。

(大橋様)
 津波は絶対に来ると思っていました。ですが、先ほども言ったように、最初は4メートルくらいだと聞かされたので、ここに居ても大丈夫だと考えてしまいました。
さすがに10メートルと聞いて、ここではまずいと思ったので、すぐに逃げろと避難指示を出しました。
色々な資料を見ると、ここでは7.3メートルくらいの津波高だったようです。
本社は2階にあったので、そこにあった物は比較的無事だったのですが、3台あった機関車は全て水を被ってしまいました。

流出したコンテナ回収の苦労

(聞き手)
コンテナもかなり広範囲に散らばってしまったのではありませんか。

(大橋様)
 そうです。民間の方や多賀城市などから、コンテナの回収を依頼されました。コンテナが一番多く流れついたのがソニーさんで、15個ほど敷地内に入ってしまったと記憶しています。
コンテナを早く片付けるという事は決まりましたが、トラックやクレーン車がないとどうにもなりません。色々な所にかなりの数のコンテナが流れ着いていたので、重機を使ってトラックに乗せて、会社の敷地に持って来る作業にかなりの時間が掛かりました。
私どもの会社のものではないコンテナもあったので、引き上げて整理する作業が大変でした。
皆さんにもだいぶご迷惑をおかけしましたし、お叱りもかなり受けました。

(聞き手)
 コンテナはどの辺りまで流されていたのでしょうか。

(大橋様)
 産業道路を超えて、砂押川で止まりました。
しかし、実は、「よくここに流れて来てくれた」と感謝されたこともあるのです。
「倉庫に使うから流れて来たコンテナをそのまま貸してほしい」、あるいは「売ってほしい」ということがあって、引き取りに来てもらったり、売却したりもありました。

(聞き手)
 うまく行った事、逆に苦労してしまった事は何でしたか。

(大橋様)
 私たちは、偶然のような感じで、JR貨物グループから色々な支援を受けました。
JR貨物さんの所に対策本部を置いていたところ、色々な物資が供給されたので、それを頂いて、社員に配布していました。
何もなかったので、本当に助かりました。
また、緊急避難だったので、私たちも動くための燃料がありませんでした。そこで、緊急避難車両という指定をして頂き、20リットルではありますが、燃料を優先的にもらえるようになりました。
社員は全員自宅待機にしていましたが、いつまでもそうしているわけにはいかないので、構内の大きながれきなどが片付いた後で、自分たちで残ったがれきやごみを片付けました。
全て手作業で行ったので、厄介で長い時間がかかる仕事でした。

復旧への様々な支援と感謝

(聞き手)
 復旧には大変なご苦労があったのですね。

(大橋様)
 正直な事を言えば、キリンビール仙台工場さんやJX日鉱日石エネルギー仙台製油所さんが主要なお客様なので、この方たちが、この場所での事業を断念するとなれば、どうしようもなかったのです。
ですが、キリンビールさんが事業を再開するという話になったので、それに合わせて復旧工事を急ぐ事になりました。
 震災の年、キリンビールさんが9月頃にビールを仕込んで、11月から輸送を再開する事になったので、まずは機関車の手配をしました。1両だけ、社員が自分たちで直すことにしました。
それをNHKさんが取材してくれたので、この話は全国的に知られるようになりました。
直す事になった103号機関車は、震災の直前に入ってきたのです。そこで、どうにか復活させようという事になりました。
ところが、全て塩水が入り込んでいますので、部品を自分たちで外して、塩水を落として、再び組み立てて、どうにかエンジンをかける事が出来ました。
再びエンジンが響いた時の音を聞いて、希望が湧いて、涙が溢れてしまいました。
他には、秋田臨海鉄道さんからリースさせていただき、また、京葉臨海鉄道さんが使っていた古い機関車を整備して購入して、なんとか3台の機関車を揃えました。
震災から1年半ほど休止していましたが、平成24年9月7日に完全復活しました。皆様の御要望に応えて物流に貢献出来たと思っています。
とにかく復旧するために、出来る所から進めていきました。
補助金制度もあったのですが、それは昭和28年に出来た鉄道整備法による補助金なので、現代の事情とマッチしていない部分がたくさんありました。
例えば、荷卸しのためのフォークリフトは補助の対象外なのです。
御指導を仰ぎながらも色々と試してみましたが、なかなか私たちで考えていたような補助対象にはなりませんでした。
請願をして要望書も出しましたが、最後の審査が通らなかった事もあります。最終的に、復旧を急いでいた私たちの気持ちとは裏腹に、補助金額はなかなか思い通りにいただけず、悔しい思いもしましたが、税金なので、やむを得ませんでした。

支援への感謝

(聞き手)
 事業を再開されての反応では、どのようなことがありましたか。

(大橋様)
 関係者の皆さんからは、「よくぞ再開に漕ぎ着けた」と言われました。私たちもそれを踏まえて、工事関係の方には感謝状を出しましたし、避難先のイオン多賀城さんにも感謝状をお送りしました。
レールを1センチずつ切って、文鎮か何かで使ってもらおうと、販売したり、差し上げたりもしました。
そうして今日に至っていますが、本当に色々な面でご支援を頂けて有難いですし、これからもそれを忘れてはならないと思っています。

避難場所の設置が重要

(聞き手)
ボランティアは受け入れられましたか。

(大橋様)
 ボランティアが来てくれるという話はあったのですが、この仕事は専門的な分野のため、全てお断りして社員でやりました。
 その中でNPO法人「地域の芽生え21」さんに、流された桜の木の代わりに、新たに、桜の木を10本ほど植えてもらいました。
それにはボランティアの方が、東京から寒いところ、来てくださいまして、40人くらいで植えてくれました。
平成25年の春に、そのうちの1本で花が咲きましたので、写真を撮って代表者の方にお送りしました。来年にも、また咲いてくれる事でしょう。

(聞き手)
 多賀城市の復旧、復興に対するご意見をお聞かせください。

(大橋様)
 色々な形で、復興事業が進められていますが、その中で「逃げる場所」はある程度指定されています。
ここは海の近くなので将来的にもまた津波が来ないとは言えません。
随所に公共の避難場所が何か所かあればと思います。それが一番重要です。
各会社などでは、どのように避難するかは決まっていると思いますが、たまたま道路や街角で災害に遭った時にはどこに避難すればいいのかという指針になるものがあれば、避難行動も起こしやすくなるのではないでしょうか。

記憶を風化させない試み

(聞き手)
 震災経験を風化させないためには何が必要だとお考えですか。

(大橋様)
 それについては、各社で色々な震災の記録をまとめています。
私たちも委員になって、被害者の方に集まってもらい、編集して作りました。JR貨物さんでも同じように資料をまとめたようですが、それを年に1回くらい紐解く日を作ってみてはどうでしょうか。
他には、避難訓練の後に、震災時の映像を見て思い返す事が、風化させない一つの方法になるでしょう。もちろん思い起こしたくない人もいるとは思いますが。
テレビなどを見ると、もう風化が始まっているように見受けられます。そうなると、本当にここが津波で被害を受けたのかと、実感がなくなってしまいます。
震災当日は、犠牲になった全ての方の命日とも言えるので、会社などで、時間を取って何かしらの行動を起こす事で、「あの時に酷い目に遭ったから、これは忘れては駄目だ、繰り返させては駄目だ」という気構えを喚起出来ると思います。

鉄道ファンの支援への感謝

(聞き手)
 本日、インタビューに伺う前にホームページを見てきましたが、鉄道ファンの方がとても細かい所まで気遣ってくれているように思いました。それについてどうお思いでしょうか。

(大橋様)
 間もなく再運行と看板で告知したら「看板が出ました」と発信してくれて、機関車が来た時も「こんな機関車が来ました」と、その都度にファンの方は状況を発信してくださいました。

(聞き手)
 そういう形でも、風化防止になるのでしょうか。

(大橋様)
 ええ、なります。細かい所まで見てくれて、とても有難いです。細かく「西港線がこうなりました」とか「臨海本線はこうなりました」とか「JXさんはこうなりました」とか、時間を追って発信してくれています。
鉄道ファンの方は、すぐに、インターネットなどに投稿してくださるので、有難かったです。

(聞き手)
 震災の経験から、後世に伝えておきたい事や教訓はございますか。

(大橋様)
 事故・災難は忘れた頃にやって来るという言い伝えがあるように、本当にいつ災害が襲いかかるかわかりません。
今回の事は千年に一度や数百年に一度だと言われていますが、私たちは、たまたまそこに当たっただけです。
ですが、こういう事は必ず起きるという事を伝えたいです。
また、そのための備えが必要になります。
震災以前は、私たちも、非常に高い確立で宮城県沖地震が来ると言われていても、本当に来るのかと疑問に思っていました。
平成23年3月11日には三陸沖で、4月7日には宮城県沖で地震が起きましたが、現実にはこれで全てが収まったわけではないと言われています。いずれまた大きな地震は起きるでしょう。
備えあれば憂いなしで、各個人や各会社、自治体でやるべき事をしっかりとまとめておくべきです。
そういった事を考えなくなってしまうと、本当に記憶が風化してしまいます。そういう事のないように、常に「いずれ起きるかもしれない」という気持ちを持っていないといけません。

鉄道会社ならではの復興策

(聞き手)
 秋田と京葉の臨海鉄道から機関車を頂いたり、お借りしたりというお話がありましたが、どのような繋がりがあったのか、お聞かせください。

(大橋様)
 臨海鉄道は全国に10社あり、東北はその中で一番多く、秋田、八戸、福島、仙台の4社があります。
各地の臨海鉄道10社でつくる全国臨海鉄道協議会という組織があるのですが、私たちの所で機関車が津波被害に遭ったことから、すぐに機関車分科会を開き、遊休の機関車がないかと話し合いをもってもらいました。
私達のところでは、線路勾配の関係で、1200馬力以上ないと16両以上の列車を牽けないということもあって、その条件に合う機関車探しに苦慮していたところ、秋田臨海鉄道さんで、JRから放出されたものが見つかり、それをリースさせていただきました。加えて、京葉からは修繕して売っていただきました。
 今度、臨海鉄道協議会の社長会が松島であるので、今までお世話になったお礼をしようと考えています。
本当に震災では苦労しましたが、今はやっと復活して元に戻りましたので、その感謝の意を伝えたいです。

(聞き手)
 その他で話しておきたい事がありましたらお願いします。

(大橋様)
 今後、自治体との連携を強くしていかなくてはいけないと思っています。会社そのものも自治体と関わりを持ち、互いに町や市を盛り上げていくというようなイベントに積極的に参加していかないといけません。
 また、清掃に力を入れています。
綺麗なまちにするため、私たちは年に4回、構内外を清掃しています。最近は、あまりマナーが良くないようで、ごみを何でも捨てていってしまいます。それを掃除していますが、マナー自体を向上してもらわないと、繰り返しになってしまいます。
 最後に、私たちは過去2回ほど、1987年(昭和62年)に開催された「'87未来の東北博覧会」と、1997年(平成9年)に開催された「国際ゆめ交流博覧会」の時に旅客営業をした事があります。
その時の切符は100円程度で販売しました。ネット上では800円という値が付いていた事があり、こうなってもらえるような夢のあるものが出来ないかと思っています。
また、ファンの皆さんの力も復興の一角を担っています。
今、仙台港付近に、水族館の計画がありますし、キリンビールさんの工場見学や三井アウトレットさんなどと組み合わせて、色々な計画を楽しい形で出来れば嬉しく思います。
村井知事からも、旅客営業をしてくれないかと言われた事があります。これからは、自治体と企業とが一体となった社会や暮らしが作れるようになれば、もっとお互いに将来への展望が出てくると思います。